深谷教会クリスマス礼拝2022年12月25日
司会:渡辺清美姉
聖書:ルカによる福音書2章1~21節
説教:「救い主の誕生」
法亢聖親牧師
讃美歌:21-261、260
奏楽:小野千恵子姉
説教題 「救い主の誕生」 ルカによる福音書2章1節~21節
今朝の聖書の箇所には、ベツレヘムと言う地名が何度も出ています。4節と6節、そして11節の「今日ダビデの町で」と言うのもベツレヘムの事を意味しています。また、15節にも「さあ、ベツレヘムに行こう」と言われています。イエスさまの降誕がベツレヘムにおいてであったことが強調されています。この事の背景には、旧約聖書の預言者ミカの「エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのためにイスラエルを治める者が出る。彼の出生は古く、永遠の昔にさかのぼる」(ミカ書5:1)と言う預言があるからです。ベツレヘムは、ダビデの誕生の地であって(サムエル記上17:12)、イエスさまのベツレヘム誕生には、イエスさまがこのダビデ王とつながりがあり、しかも、ダビデ以上の王であったという意味があるのです。
そして、イエスさまの誕生には、もう一つ繰り返し語られていることばがあります。「布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」と言う言葉です。7節、12節、16節にも記されています。「飼い葉桶に寝かせた」とは、「貧しさ」「低さを」表しています。また「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」と言うことも、「貧しさ」「低さ」を表しています。このことは、イエス・キリストは故郷(天国)を離れ地上(この世)に降ってきたにも関わらず世間からはじき出され路頭に迷っている人々と同じ状況の中に生まれたことを象徴しているかのようです。クリスマスの御子は、そうした「低さ」の中に生まれたのです。
「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、しもべの身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(フィリピ2:6~8)
クリスマスの出来事は神の子の誕生そのものがこの「へりくだり」であったことを表しています。「飼い葉桶の中に」と言うことは、「神の子のへりくだり」の具体的なお姿でした。そこには、既に「死に至るまで」「しかも十字架の死に至るまで」と言う主イエスの道が始まっていることを明らかにされています。ここに、私たち人間のために降ってこられた「神の憐れみ」「神の愛」が示されています。ですから、クリスマスは、「身を低くされた神の憐れみ」の出来事であり、「神の愛による奇跡」だと言うことができるのではないでしょうか。
クリスマスは神の御子の受肉の奇跡ですが、イエスさまの受肉は初めから十字架を目指していました。受肉は人間の運命への参与と、その罪の赦しのため、つまり贖罪(しょくざい)のためでした。私たちは、主日の礼拝ごとに信仰告白の中で「御子は我ら罪人の救いのために人となり」と告白します。そのようにしてクリスマスが贖罪のためでもあるというように理解しますと、2章14節の意味が明らかになります。
「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」は、何の根拠もなく言われているのではないのです。クリスマスの御子の受肉があり、罪と悲惨な人間への神さまとのつながりのあるゆえに「神に栄光、地に平和」なのです。極限的状況に身を置く人にさえ「地に平和」なのです。
ある信仰の先達は、若き時にキリスト教の教えを受け、キリスト教に触れながら信仰に入る機会を失い、70歳近くになって教会に通うようになり、洗礼を受けられました。75歳でミッション系の大学を退職されましたが、その年の夏、肺がんが発見され手術を受けられました。そして、手術後からあえぐような息遣いでしか話をすることができなくなってしまいました。そうした状態になられたにも拘わらず、「70歳を過ぎ,年を経るごとに自分なりにキリストのことが分かるようになり、病院のベッドの上では心の中で、主の癒しにあずかることを祈り続けました。イエスにつながること、そして、自分の死と言うことがしきりに去来する中で『われ汝にやすきを与えん』と言うみ言葉が胸を打ち、キリスト者になって本当に良かったと思うようになりました。」と証されておられます。
イエスさまの慰めは、人間が極限に立てば立つほど、身近になるところがあります。人間がどのような状況、事態に立たされても、そこに主はおられるのです。
「飼い葉桶に生まれ、十字架に死なれた主」がまことの主であることは本当です。この世のどん底に生まれ、この世のすべての苦しみを知っておられる主(メシア)であるからです。
私たちの主イエスは、受肉され人間の弱さを知っておられます。そういう意味で私たちは、自分が若く元気であるうちはイエスさまの受肉の意味を十分に分からないのかもしれません。しかし、前述の信仰の先達のように、自分の肉体の頼りなさがいよいよ切実になる時に、主の受肉がどれほどの愛のゆえであったかが少しずつ分かって来るのではないでしょうか。人は、高齢になればなるほどその思いを強くするのです。
御子イエス・キリストは、王の王なるメシアであり、受肉され、人の痛み(弱さ)を知るメシアであり、しかも、ご自身の血潮によって人の罪、即ち神さまのみ旨に従って生きることができない私たちを贖い清め、神さまに立ち返らせ、永遠の命をお与えくださるメシアなのです。
そのイエスさまが私たちの内にご降誕くださる恵みの日がクリスマスなのです。まことの宝である主イエスを欠け多き土の器の中に受け入れる恵みの日なのです。
この恵みの出来に私たちが与れるように、キリストの教会に聖餐式が主イエスご自身から与えられました。ベツレヘムの馬小屋に生まれ、飼い葉桶の中で、布にくるまってくださった主は、今日、この教会の聖餐式の中におられ、パンとブドウ酒(ブドウ汁)を受ける時、私たちに出会って下さるのです。信仰によって、パンとブドウ酒を受ける時、贖われ永遠の命にあずかり、キリストとつながることができるのです。
「御心に適う人には平和」とは、人間の能力、資格は問題ではなく、「御心に適う人」とは、羊飼いたちのようにただみ言葉を信じて受け入れるだけの人のことです。「あなた方のために救い主が誕生した」ということは、その主に従い、主に属する人々のためです。そう信じた全ての人のためです。私たちも信じ、決意をもってこの恵みを受け入れ、「神をあがめ、賛美したい」(2:20)と思います。今日主の民とされていることを喜びたいと思います。